・・・はて、逃げる? どうしておれは逃げているのか。
 逃げる必要など無かったはずだ。それでもおれは逃げている。
 一体何から? 彼女から? ―――全てから?
 走るのを止めて、立ち止まった。肩で息をする。こめかみから汗が滑り落ちた。
 何故か手が震えていた。全力疾走したせいで足が悲鳴を上げていた。思わずその場に座り込んでしまった。
 彼女は変わってなかったな・・・。さっき見た映像を思い出す。
 長い髪も、丸い目も、長いまつ毛も何もかも自分の記憶の中の彼女と同じだった。
 せめて変わっていてくれたなら、おれもまだすっきりした気持ちになっただろうに。
 自分勝手な考えに嘲りの笑いが込み上げてきた。
 「・・・だっせぇ。」
 自分ひとりじゃ立ち直れないから、彼女に頼ろうってのか? 
 目の前で幸せそうな彼女をみて、自分に言い聞かせようとしてたのか?
 ほら、彼女はもうお前のことを忘れて幸せになっている。だからお前も忘れろ≠チて。
 馬鹿馬鹿しい。情けないったらないね。
 まだ震えている手を握りしめ、自らの頭を殴った。
 殴った箇所が異様に熱かった。殴った手もじんじんと痛かった。
 立ち上がって息を整えてみた。焦っていた気持ちが少しずつ治まってきた。
 ふと、道端に咲く花に気がついた。コスモスだった。
 アスファルトの裂け目から、空に向かって手を伸ばすように咲いていた。
 風に揺られ、危なげに揺れ動くその花に惹きつけられた。
 ゆらゆらと、薄桃が揺れた。ふらふらと、その度に惹かれていった。
 「なぁ、由香子。おれはお前に何ができただろうな。」
 こんなにも未練がましく、浅ましい自分。ずっと前からこうだったっけ?
 ゆらゆらと、ふらふらと、悶々としていく思考回路。
 目の前には薄桃と、雲ひとつ無い空。何だか羨ましくて手を伸ばして触れようとした。
 伸ばした手は、届かなかった。



 突然視界が回転した。甲高いブレーキ音と共に黒い影が視界の隅で電柱に激突していった。
 なんだろう。金属のひしゃげる不快な音がした。
 視界いっぱいに青があって、眩しかった。
 アスファルトに叩きつけられて初めて、自分が宙を舞っていた事に気づいた。
 何故か痛みはなかった。何が起きたんだろう・・・他人事のようにぼんやり思った。
 目の前には、コスモス。じっとおれを見下ろしていた。必死に手を伸ばした。やけに体が重い。
 誰かが叫んでいるが、知ったこっちゃ無い。
 手を触れると、コスモスはゆらゆらと揺れた。眩しい青と薄桃が交じった。とても綺麗だった。
 ああ、なんだ。コスモスは空と交じるために揺れていたのか。
 おれは―――何のために?
 まったく、こんな陽気の中なんて怠慢なおれの思考回路よ。結局答えは導き出さずじまいか。
 ああそうかい。もう何もかもどうでもいい。すべて青に交じってしまえ。
 遠のいていく意識の中、薄桃色はゆらゆらと・・・



  終



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